ランニングの数理
マラソンの予想タイムを出す 3 つの方式
同じ「予想タイム」でも、材料が違えば意味が違う。Riegel 式は過去の記録を、Tanda 式は練習の量とペースを、VDOT 式は心拍と速度を材料にする。3 つを、何を入力にして何を仮定しているかという観点で並べて読む。式に出てくる記号が何を指すかから始めて、導出の考え方、適用範囲、実装したときに踏む落とし穴までを辿る。
013 つの方式は何を材料にするか
マラソンの予想タイムを出す方式は数多くあるが、実用されているものは材料で 3 つに分けられる。過去の記録から換算するもの、練習の実績から推定するもの、生理学的な指標を経由するものである。どれが優れているという話ではなく、手元にある材料が違う。
- Riegel 式
- ある距離を走ったタイムから、別の距離のタイムを換算する。材料は 1 本のレースまたは全力走
- Tanda 式
- 直近の週平均距離と平均練習ペースから、マラソンのペースを推定する。材料は 8 週間の練習記録
- VDOT 式
- 速度と心拍から最大酸素摂取量を推定し、そこからタイムを出す。材料は心拍つきのランであればジョグでもよい
この違いは実用上そのまま制約になる。レースに出ていなければ Riegel 式は使えない。走り込みが少なければ Tanda 式は範囲外になる。心拍計と最大心拍の値がなければ VDOT 式は動かない。3 つを併記する実装が成り立つのは、材料の欠け方が互いに独立しているからである。
02Riegel 式 — 記録を距離方向に伸ばす
Peter Riegel が 1981 年に American Scientist 誌で発表した式である。もとは「人類の持久力を距離の関数として表す」という問いから出ている。Riegel は 100 m から 100 マイルまでの世界記録を集め、タイムと距離の関係が単純なべき乗則に乗ることを示した。
式に出てくる記号は 4 つだけである。D1 は実際に走った距離、T1 はそのときのタイム、D2 は予想したい距離、T2 がその予想タイムである。
T2 = T1 × (D2 ÷ D1)^1.06
肝は指数の 1.06 である。これがちょうど 1.0 であれば、距離が 2 倍になればタイムも 2 倍という比例関係になる。実際にはそうならない。1.06 乗では、距離が 2 倍のとき 2^1.06 = 2.085 倍になる。つまり倍の距離を走ると、単純な 2 倍より 8.5 パーセント余計にかかる。この上乗せ分が、グリコーゲンの枯渇、体温の上昇、走りのフォームの崩れといった、距離が延びるほど効いてくる要因をまとめて表している。
Riegel はこの指数を「持久係数」と呼び、集団ごとに当てはめると持久力を比較できると述べている。鍛えられた集団ほど指数は 1.06 に近く、そうでない集団ほど大きくなる。
Riegel 式はもともと世界記録への当てはめである。世界記録の保持者は、どの距離でもその距離に見合った練習を積んでいる。市民ランナーが 5 km の記録からフルを換算すると、走り込みが足りないぶん実際はもっと遅くなる。短い距離からの換算ほどこのずれが大きい。
03Tanda 式 — 練習内容から直接当てる
Giovanni Tanda が 2011 年に発表した式である。これまでの 2 つと発想が違い、レースの記録を一切使わない。使うのは練習の記録だけで、しかも 2 つの数字しか見ない。たくさん走っているほど速い、普段のペースが速いほど速い、という当たり前の関係を、係数まで決めて数式にしたものである。
記号は 2 つである。K は 1 週あたりの平均走行距離(km)、P は普段の練習の平均ペース(秒 / km)。いずれもレース前の 8 週間で集計する。出てくる Pm は本番で維持できるマラソンのペース(秒 / km)である。
Pm = 17.1 + 140.0 × exp(−0.0053 × K) + 0.55 × P
3 つの項がそれぞれ別の役割を持つ。第 1 項の 17.1 は定数で、下駄にあたる。第 3 項の 0.55 × P は普段のペースの寄与で、ここは線形である。練習ペースが 10 秒 / km 速くなれば、本番のペースは 5.5 秒 / km 速くなるという読み方をする。
特徴的なのは第 2 項である。140 × exp(−0.0053 K) は走行量が増えるほど小さくなる減衰項で、これがペナルティとして効いている。走行量ゼロなら 140 秒 / km が丸ごと乗るが、週 100 km まで増やせば 82 秒 / km まで減る。指数関数なので、増やすほど 1 km あたりの効き目が薄れる。走り込みの収穫逓減を式のかたちで表現しているのがこの項である。
Tanda 自身が示した標準誤差はおよそ 4 分である。レースの記録を必要としないことを考えれば十分に実用的な精度だが、前提には注意が要る。式のもとになったのは週 40 km から 150 km を走るランナーのデータである。走行量がその下限を大きく下回ると、減衰項が頭打ちになってペースの項だけで結果が決まってしまい、実態からかけ離れた楽観的な値が出る。
04VDOT 式 — 酸素の量に翻訳する
Jack Daniels と Jimmy Gilbert が 1979 年の著作 Oxygen Power で示した枠組みである。ここでいう VDOT は、走りの成績から逆算した最大酸素摂取量(VO2max)にあたる指標で、単位は 1 分あたり体重 1 kg あたりのミリリットル(mL/kg/分)である。持久走の強さをいちばん直接に表す数字と考えてよい。
この枠組みの土台は 2 本の回帰式である。1 本目は速度から酸素の要求量を出す式で、ある速さで走るには毎分どれだけの酸素が要るかを与える。v は速度(m / 分)、VO2 はそのときの酸素要求量(mL/kg/分)である。
VO2 = −4.60 + 0.182258 × v + 0.000104 × v²
2 本目は持続時間から出力の割合を出す式である。全力で走れる時間が長くなるほど、VO2max のうち使える割合は下がっていく。t はレースにかかる時間(分)で、返る値は 0 から 1 の割合である。
%VO2max = 0.8 + 0.1894393 × exp(−0.012778 × t)
+ 0.2989558 × exp(−0.1932605 × t)
指数関数が 2 つあるのは、減り方の速さが違う 2 つの要因を重ねているためである。減衰の速い項(−0.19)は数分のレースで急速に効き、遅い項(−0.013)は数時間のレースまで尾を引く。t を大きくすると全体は 0.8 に収束する。これは「どれだけ長く走っても VO2max の 80 パーセントは下回らない」という漸近線を意味する。
| レース時間 | %VO2max | おおよその距離感 |
|---|---|---|
| 10 分 | 1.01 | 3000 m 前後 |
| 30 分 | 0.93 | 10 km 前後 |
| 60 分 | 0.89 | ハーフ手前 |
| 120 分 | 0.84 | ハーフ〜30 km |
| 210 分 | 0.81 | フルマラソン |
ここまではレースの記録があることが前提になっている。記録がある距離とタイムを 2 本の式に入れて、辻褄の合う VDOT を求める、というのが本来の使い方である。
記録がなくても VDOT を出したい場合には、3 本目の式を足す。心拍から「いま能力の何割を使っているか」を読む式である。Swain らが 1994 年に示した回帰式で、最大心拍に対する割合と VO2max に対する割合が直線で結べることを示している。
%HRmax = 0.6463 × %VO2max + 37.182
これを %VO2max について解き直せば、心拍から出力の割合が読める。あとは割り算をするだけである。そのペースに必要だった酸素量を、そのとき使っていた割合で割れば、全開で走ったときに取り込める量、すなわち VO2max が出る。
VDOT = そのペースに必要な酸素量 ÷ 使っていた能力の割合
この方式の弱点は最大心拍にある。年齢からの推定式(220 − 年齢、あるいは成人でより当たりやすい 208 − 0.7 × 年齢)は標準偏差が 10 拍ほどある。分母の割合が直接ずれるため、推定した VDOT もそのままずれる。実測値を使うのが望ましい。
05VDOT からタイムを逆に解く
VDOT が求まっても、それだけではタイムにならない。前章の 2 本の式を連立させて、辻褄の合う時間を探す必要がある。ここが実装でいちばん手間のかかるところである。
考え方は単純である。ある時間 t でその距離を走り切ると仮定すると、必要な速度が決まり、1 本目の式から必要な酸素量が出る。一方、その t のあいだ維持できる割合は 2 本目の式で決まるから、VDOT を掛ければ供給できる酸素量が出る。この 2 つが釣り合う t が求めるタイムである。
この式は t について解析的に解けないため、数値的に探す。t を大きくすると必要量は減り、供給量も減るが、減り方が違うので交点は 1 つに定まる。単調なので二分法で十分である。
lo = 10 分, hi = 600 分
60 回繰り返す:
mid = (lo + hi) / 2
必要 = VO2(距離 ÷ mid)
供給 = VDOT × %VO2max(mid)
必要 > 供給 なら lo = mid(もっと時間をかける)
そうでなければ hi = mid(もっと速く走れる)
実装した結果は、Daniels の公表している VDOT 表とよく一致する。たとえば VDOT 38 でフル 3 時間 59 分、5 km 25 分 10 秒。VDOT 45 でフル 3 時間 28 分、5 km 21 分 49 秒。サブ 4 の目安が VDOT 38 前後という一般に言われる水準とも合う。
063 つを並べて比べる
3 つの方式は、同じ「予想タイム」という単位の値を返すが、答えている問いが違う。Riegel 式は「いまの走力を距離方向に伸ばすとどうなるか」、Tanda 式は「この練習量ならどこに着地するか」、VDOT 式は「心肺の能力はどの水準か」に答えている。
| Riegel 式 | Tanda 式 | VDOT 式 | |
|---|---|---|---|
| 発表 | Riegel, 1981 | Tanda, 2011 | Daniels & Gilbert, 1979 |
| 入力 | 1 本の記録(距離とタイム) | 週平均距離・平均練習ペース | 速度・心拍・最大心拍 |
| 集計の期間 | 直近の 1 本 | 8 週間 | 1 本でも可 |
| 全力走が要るか | 要る | 要らない | 要らない |
| 暗黙の前提 | その距離に見合った走り込みがある | 週 40〜150 km の走り込みがある | 最大心拍が正しい |
| 拾えるもの | スピード | 走り込みの量 | 心肺の能力 |
| 拾えないもの | 持久力の不足 | 練習の質の偏り | 脚の耐久性 |
| 誤差の目安 | 短距離からの換算で楽観的 | 標準誤差 4 分前後 | 最大心拍 10 拍で 30 分 |
3 つが食い違ったとき、その食い違い自体が情報になる。VDOT 式だけが速く、Riegel 式と走り込みの実績が遅い場合は、心肺は仕上がっているが走り込みが足りていない、と読める。逆に Tanda 式だけが速ければ、距離は踏めているがスピードの刺激が足りていない可能性が高い。
3 つの平均を取ると値は安定するが、食い違いの情報は消える。平均を主役に出すとしても、内訳は必ず併記したほうがよい。
07適用範囲と実装上の落とし穴
どの式にも、素直に実装すると壊れる箇所がある。順に挙げる。
Riegel 式の楽観。もとが世界記録への当てはめであるため、短い距離の記録から長い距離を換算すると速すぎる値が出る。市民ランナーでは 10 km からフルを換算して 10 分から 20 分の楽観が普通に出る。距離に応じた補正を乗せるのが現実的である。5 km 未満なら 3 パーセント、10 km 未満なら 1.5 パーセントだけ遅くする、といった調整を入れる。
さらに深い問題として、材料に何を選ぶかがある。直近の最速のランを機械的に選ぶと、ジョグしかない時期にはジョグが材料になる。ジョグは全力走ではないので、その結果は「スピードの上限」であって予想ではない。
Tanda 式の下限。走行量が少ないと減衰項が頭打ちになり、事実上ペースの項だけで結果が決まる。週 5 km しか走っていない人でも、ジョグのペースが速ければサブ 4 相当の値が出てしまう。式の成立範囲の下限を決めて、下回る場合は値を出さないほうが誠実である。
VDOT 式の分母。最大心拍の設定がすべてを左右する。実装上は設定必須にして、未設定なら値を出さない。加えて、走り出しの 1 区間は心拍が負荷に追いついていないため除外する。心拍は負荷から 30 秒から 1 分ほど遅れて上がるので、加速直後の区間は実際より低い心拍と速いペースの組み合わせになり、VDOT を過大に見積もる。
また、1 本のランのなかでも区間ごとに推定値はばらつく。区間ごとに VDOT を出して平均し、さらにラン同士では中央値を取ると安定する。暑い日や心拍ドリフトの大きい日は低く出て、下り基調のコースでは高く出るため、平均より中央値のほうが外れ値に強い。
3 つに共通する最大の前提は、その距離に見合った練習を積んでいることである。Daniels は、マラソンの予測だけは他の距離と違ってマラソン向けの走り込みを前提にすると明記している。心肺の能力がフル 3 時間 50 分相当でも、30 km 走をこなしていなければその通りには走れない。どの方式の値も、走り込みの不足は教えてくれない。
08使い分けの指針
実際に使うときの順序を整理する。
- レースの記録がある
- Riegel 式が最も素直。ただしフルへの換算は、同じ距離での経験がなければ楽観側に振れると見込む
- レースには出ていないが走り込んでいる
- Tanda 式が向く。週 40 km 以上を 8 週間続けていれば、標準誤差 4 分程度で当たる
- 心拍計があり、ジョグしかしていない
- VDOT 式で心肺の現在地が分かる。ただし最大心拍を実測しておく
- 3 つとも出る
- 食い違いを読む。平均は指標として便利だが、判断は内訳を見て行う
最後に、予想タイムを何に使うかを決めておくことを勧める。目標設定の材料にするのか、練習が効いているかの確認に使うのかで、見るべき方式が変わる。目標設定なら 3 つの中で最も保守的な値を採り、効果の確認なら同じ方式の時系列を追う。方式をまたいで比較しても、答えている問いが違うので意味を持たない。